2023-02-14

テレビで見せるアニマルコミュニケーションの危うさ

先日、呼び名は異なっていたが、アニマルコミュニケーター的な、「動物と話せる」という方がテレビに出演されていた。

私はこの番組の流れに対し、この感じだと誤解を生みそうだなぁ…と思いながら観ていた。


テレビ番組にはテレビ番組の都合や意図がある。また、番組制作者側がどこまでアニマルコミュニケーションに対し深い理解を持ち合わせていたかはわからない。


番組では、いきなり著名人の亡くなったペットの気持ちや、動物園の動物どうしの関係を読み取り、話す様子を放送していた。


動物とのコミュニケーションの仕方を「動物の表情から気持ちを読み取る」とナレーションされていたが、私はその方は動物の表情だけではなく、動物が発するエネルギーやテレパシーを用いてもコミュニケーションを取っていたと思う。しかし、“テレパシー”という言葉をテレビ番組で用いるのはよろしくないと考えられたのか、その言葉は一切使われず、「動物の表情から読み取っている」という表現に終始していた。


テレビ番組的には動物の気持ちさえわかればその手法がどうであれたいした問題ではないのかも知れないし、或いは気を使ってテレパシーと言わなかったのかも知れないが、私としてはアニマルコミュニケーションは、もちろん動物の瞬きや姿勢や仕草、声、微細な表情から読み取れもするけれど、波動みたいなものを感じ取ったりテレパシーで会話するのも当たり前なので、「動物の表情から読み取っている」としか言わないことには違和感はあった。


そして最も危うさを感じたのは、その番組において、動物と話す人がちゃんと動物と繋がっていて本当に正しく動物からのメッセージを受け取っているのか、読み取れているのか、証拠が示されないまま放送されている点だった。私はその方動物と話す活動をされていることは以前から知っているので疑ってはいなかったが、観ている人によっては「こういうのってどんなふうにでもそれらしいことが言えるよね」「本当に合っているかの証拠は?」と思うかも知れない。それが高じて「こんなの嘘だ」となりかねない。


具体的に言うと、例えば、亡くなったペットであれば、生前どんなことが好きだったか、どんなことに興味を持っていたかなど、飼い主さんが答えを知り得ることを動物に質問して、答え合わせをして、正しければ少なくともその時点でコミュニケーターは動物と繋がれていたとみなすことができる。「ボール遊びが好きだったようだ」みたいな、多くの犬が好きそうなことしか言わないと、まだ「本当?」と疑われる余地があるけれど、「遠くに投げられたボールを追うというより、地面に強くたたきつけられバウンスするボールを目で追って取りに行くのが好きだったようだ」という情報を得られれば、より詳細で具体的なので「確かにうちの犬とはボールで遊ぶ時はそうやって遊んでいた」という事実と合致し、動物から情報を受け取れているという証拠になり得る。そうやって初めて次に「病気の時はどんな気持ちだった?」「生きていた時は幸せだった?」という、答えに対する確証が得ようがない質問に対する答えへの信頼感が増すのである。


テレビに出演していた方は、普段ご自分のフィールドではもちろんこういった検証可能な質問を動物にちゃんとして繋がれている確証を飼い主さんに示されていると思う。


ただ、テレビ番組内ではその点が披露されておらず、説明もなかった。或いはその方も今回の番組内ではそういったことを行うことを省略したかも知れない。

私は、アニマルコミュニケーションを知っているから「この方も表情や仕草の読み取りのみならずテレパシーでもやっているだろう」と思って観ていた。


しかし、アニマルコミュニケーションをあまり知らない人がこの番組を観ていたら、もちろん興味深く楽しんだ人もいるだろうが、中には「これって本当なの?何とでも言えてしまうのでは?真実かわからないよね?」と思う人もいるだろうな、と思った。そしてもっと強い表現になると、「いんちきだ」「不快だ」となっていくのでは…と懸念した。


案の定、SNSを覗くとそういったコメントが溢れていて、私は少しだが血の気が引いて、結構胸の真ん中がしおれた。


こんなふうにアニマルコミュニケーションを受け取られ、決めつけられたら悲しいな、と思った。一方で、この番組構成ではそう取られても仕方ないとも理解できる。


だから、この世界の話を世間に示す時は、注意深くあらねばならないと思う。

オカルトとか占いとか似非スピリチュアルとか思い込みとかただの慰めだとか悪どいお金稼ぎなどと誤解されないように、きちんと最初から説明しないと、非常に危険だと思う。


また、動物と本当に会話している人と、テレビ番組を制作している人の意図が必ずしも一致するとは限らない。そこにものすごく注意しないと、動物や人間のために必要なこの世界が変なふうに受け止められかねない。


私が以前、亡くなった動物さんとのコミュニケーションを勉強中で無償で行なっていた時に、ある飼い主さんから問い合わせをいただいた。


「本当に動物と人が話せるのか?という懐疑的な気持ちと、もし本当なら動物の気持ちを聞いてみたい、という期待もある」とのことだった。


それを読んだ当時の私の体の奥底から自然と湧き上がった気持ちは、

「私は命懸けでアニマルコミュニケーションをやっている!」

というものだった。(熱いな…笑)


ただそれをそのまま書くのも何なので、

「自分はアニマルコミュニケーションを神聖なものとして扱っている。アニマルコミュニケーションについて懐疑的な気持ちがお強い場合はセッションはおすすめしない」

と応えた。飼い主さんの疑いの気持ちが強いままだと私との間に壁ができてしまい、その方の大事な動物さんとのエネルギーの繋がりも弱くなってコミュニケーションがうまくいかないかも知れないからだ。(私の場合は)


結局はお申し込みいただいたのだが、やり取りの中でその方が伝えてくださったことは、

アニマルコミュニケーションのことをよく知らない人にとっては(前向きであれ後ろ向きであれ)

「動物と話せる、ということが本当なのか、疑うより前に我々には“わからない”のだ」

ということ。

そして

「アニマルコミュニケーションを疑う人は疑えばいい、信用しないならしなくていい、という考え方ではなく、アニマルコミュニケーターの人たちには、よく知らない人たちにわかりやすくそういう世界への導き役を努めてほしい」

という願い、だった。


アニマルコミュニケーションの目的は、

『一匹でも多くの動物や動物の魂が人間に理解され、癒され、安心し、幸せを感じるため』

と私は考えている。


そしてそのことによって結果的にそばにいる人間が癒やされ、安心し、解放され、幸せを感じられればありがたい。(最初からそこを目指しているわけではない)

なぜなら動物は一緒に暮らす人間が幸せや安心を感じられれば自分たちも幸せで安心を感じられるからだ。


だから、こういう世界があるよ、こういう手法があるんだよ、それはいんちきでもなく健全な方法なんだよ、ということを正しく伝え続ければ、この目的が広く多く達成できるはずだ。


様々な考え方や感性の人がいるから難しい点はあると思う。限界を感じ諦めたり、見ないふりをすることしかできない時もあるかも知れない。


でも、本当にアニマルコミュニケーションは嘘でもいんちきでもないんだから、やっぱり丁寧に説明することをさぼってはならないのだ。


あの時の飼い主さんの言葉の重さを今更ながら感じている。



追記:他番組にて有名なアメリカ人アニマルコミュニケーターのHさんが動物の気持ちを伝えている時は、Hさんが飼い主ご家族や飼育員の方しか知らないことにも言及されていたので自然と信頼を得られていたのではないかと考えられる。

ちなみに実際にHさんのセッションを受けたアメリカ在住の友人によると、「Hさんは普通のとても動物好きな気さくな人、という感じで、突拍子なく自分しか知らないことを言ってきて『うわぁ、不思議!すごい!』という感じではなく、ピンポイントに動物の気持ちとその対処法を教えてくれる、という感じだった、日本の某番組については『テレビだからね…多少構成とかは配慮されているよね…』みたいなことを言っていた」とのこと。






2022-02-17

そらに生まれ変わった犬

私は、キッチンで洗い物をしながら、歌を歌っていた。

以前あったポメパラというサイトのBGMに使われていた南国チックなメロディーで気に入っていた曲があった。そのメロディーに、かつて一緒に暮らしていた犬の名前をのっけて歌っていた。


傍でそらがあっちを向いて伏せていた。


そらを迎える時、たぶん、私がアフリカで暮らしていた時の犬の生まれ変わりだろうと夫と共に考えてはいたのだが、10匹いたうちのどの子だかわからなかったし、アニマルコミュニケーションをしてちゃんと確認したこともなかった。そろそろ聞いてみようかな~と思ってはいた。


順に犬の名前を歌っていっても、そらは全く反応しない。

「この子では?」と思っていた子のパートで、反応無し。

今朝あげたフルーツと同じ名前の子のパートでも反応無し。

「フルーツくれるの?」と勘違いして振り返るかな、と思ったが、振り返らないので「そもそも歌を聞いてないのか~」と思った。


かまわず引き続き歌っていると、一番長老だった犬の名前でそらがガガッと振り返った。


私は驚いて「えっ、そら、もしかしてゴローの生まれ変わりなの?!」と聞くと、そらがまばたきをした。


それから何回聞いてもまばたきをした。

そしてにこにこ寄ってきて、喜ぶ仕草をし、いつもと違う変なお尻の振り方をした。

(今思うとラブラドールっぽかった?)


私は心底びっくりしたが、同時に胸がズキューン💓と反応して、確信した。

そらはゴローの生まれ変わりなんだ。


四十年の時を経て、私のところに戻ってきてくれたんだ。


嬉しくて、感動して、泣けてきた。


今まで、「風太と琴が死んだ時、生まれ変わってきてまた一緒に暮らしたい!と思いはしたけど、実際もし生まれ変わって今そらやとわなんだとしても、ふーん、としか思わないよね~不思議だね~」なんて思っていたけれど、あのゴローが!!と思ってこんなに胸が熱くなって泣けてくるのはなぜなんだろう??



ゴローはイエローのラブラドールレトリバーで、アフリカの社宅に到着した時点で成犬として居たので、前任者が飼っていたのだと思われる。


まだ小五だった私。車から降りた半ズボンの私の太ももをゴローはベロベロと舐めてきた。今思うと、広大な庭の先にあったその門は、ゲストが来た時に使う門であり、ふだん使っていた門ではなかったので、好奇心旺盛にわざわざ降りてきてくれたのだろう。

尻尾をブンブン振り、ベロベロ舐めまくってくるゴローを私は一瞬で大好きになった。傍に白いポメラニアンのビーバーもいた。


それから生まれて初めての犬と暮らすアフリカ生活が始まった。


ある日の夜中にビーバーが庭の門の下をくぐり抜け外に出てしまって車の事故に遭い急逝し、11歳くらいだった私は狂ったように泣いた。それを見て、感じて、寄り添ってくれていたのはゴローだ。自分も悲しかっただろう。


やがて父が新たにオレンジのポメラニアンの子犬を迎えてくれた。

私はうれしくて、ゴローと共に可愛がった。基本的に犬たちは庭で暮らしていた。時々ポメラニアンだけ家の中に入ることが許された。たぶん小型犬だったからだろう。かといって特段犬用ベッドやお皿があるわけではなかった。


そのうち、父が「老犬とポメラニアンじゃ番犬にならない」と考えたのか、ドーベルマンやらシェパードの子犬たちがどんどんやってきて、気づくと10匹の犬が私の家族になっていた。


私が庭に出て動くと全員でぞろぞろついてくる。広い庭の隅々まで一緒に歩いた。

犬が興味を持つものに私も興味をもち、「なになに?」と見入り、見せてもらう。

犬と一緒に草の上で追いかけっこをし、くんずほぐれつ転げ回った。

犬用シャンプーなんてものは無かったので台所洗剤で庭のホースから出る水で洗う。洗った後、犬たちが芝生でボディをすりすりしまくって水気を取るのを見てゲラゲラ笑った。

私はよくゴローの背中をロングストロークで撫でた。独特の匂いと脂分を感じた。座るゴローの背中に腕を回して抱きしめた。


ふだんは絶対に家に入ってこないゴローが、雷が凄かった夜、引き止める人間を振り払って家の中に入ってきた。いけないことをする子ではなかったので「こんなにだめ、と言われているのを押し切って逃げてくるほどこわかったんだ!」と私は思った。


アフリカではよくあることだと思うのだが、季節によって動物の耳たぶに吸血する蠅がたかる。垂れ耳のゴローは蠅のかっこうの餌食になってしまい、薬を塗ってはいたが、ある時耳たぶから大量に出血してしまった。それでなぜか離れた犬小屋にしまわれてしまって、ゴローは大声で「出して!」と鳴き続けていた。


どこかのよそのメスの発情期に、ビーバーと同じようにどうにかして門をくぐりメスを求めて外に出て行ってしまうのだが、ある朝、傷だらけになって戻ってきて、庭のスプリンクラーで体を冷やしているのを見て、複雑な気持ちになったものだ。そこまでするのか、どうやって閉じた門の狭い隙間を抜け出して行ったのか…という思いと、負けてすごく悔しいんだろうな…という思いと、傷が痛そうでかわいそう…でもなんかちょっとコメディっぽい…という思いと。


一番年上だったゴローは悠々として優しかったが、何度か若い犬に怒ったのを見たことがある。一度はポメラニアンが一喝されて気絶してしまい、死んでしまったのかと思って慌てた。


ゴローは推定15歳、みたいな話だったけれども、実際のところはわからない。今思うと8歳〜10歳くらいだったのではないかと思う。現代のようにフィラリア予防薬や狂犬病ワクチンをしていたとは思えず、ゴローは他の犬に比べると長生きで歳をとっていた感じであった。


私は、途中でイギリスの学校で寮生活を送ることになったので、学期が始まって寮に戻る日が最後のお別れになってしまった。


ある日、母が窓から庭を眺めながらキッチンで洗い物をしていて、その庭の真ん中に横たわっていたゴローが、ふと頭を上げ、母を見て尻尾を数回振り、頭を芝に下ろした。ゴローが旅立った瞬間だったという。母は「今までありがとう、行くね、って挨拶してくれたんだと思う」と言ってた。



それから四十年の間にゴローの魂は何度も生まれ変わり、いろんな体験をして、今回『ポメラニアンになって、ポメラニアンと共に、子犬の時からさいごの時まで“あの時の女の子”と生きるんだ』と私たちの家族になることを決めてくれたことに感動した。



だいぶおばさんになっていた“あの時の女の子”ですが。



やっと気づいたかね