2021-08-27

ずっと人間を見ている犬


犬は物理的に口から人間の言葉を話さない。


科学的には、犬は人間の言葉を理解しているわけでなく、言葉の音の強弱や、話す人間の感情や様子を感じて取って、過去の経験とも照らし合わせて反応しているだけだ、という見解があるけれども、私は犬がわかっている単語はいっぱいあると思うし、結構長い文章を話しても理解している時もあると感じている。一方全く理解していない時も多々あると思うし、意図的に無視しているというか、わかろうとしていない時もあるし、言葉の意味より私が怒って醸し出している態度や声に単に反応してびびっているだけだな、と思う時もある。


アニマルコミュニケーションで心の中で話しかける時はイメージも交えて人間の言葉で話しかけている。

返ってくる答えは映像や色や感触、音、イメージ、印象などが多いが人間のセリフみたいな時もある。


だからアニマルコミュニケーションの観点から言えば、動物は人間の言葉がわかると思う。


また、アニマルコミュニケーションで実際に声に出して話しかけた時でも、口から出る言葉にもエネルギーが乗っかっていて、それも受け取れていると思う。そして、物理的にまばたきしたり、背を向けたり、擦り寄ったり尻尾を振ったりため息をついたりして答えをくれる。


なので私はどの説も合っていて、現実だと思っている。

ぺらぺら説明してもてーんでわかってない時と、静かに深~い会話が成立している場合があるのが現実、って感じ。


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犬は、あんなに豊かな感情や意思を持っているのに、ぺらぺらしゃべらないでよくやってられるな、と思う時がある。


通したい意思があるのに、シグナルを出しているのに、人間が気づいてくれない。

これは結構しんどくて、わかってもらおうと更に行動を強める時もあるし、諦めたり、ストレスとして溜め込んでしまう時もあると思う。ひどいとそれで体調を崩したり病気になることもあるだろう。


だからやっぱり人間もよく犬を見て気づいてあげないといけないんだね。

日常の他のことに気を取られて、ついさぼってしまうね。


一方、犬は動物的な行動としては言葉を発しないし、日常こまごまとやることもないから(笑)、一緒に暮らす人間のことをすごーく観察していると思う。


人間が何をしているのか、次どうしようとしているのか、

今どんな気分でどんな感情なのか、

言葉や理屈抜きで、感じ取ろう、知ろう、と本能でもってやっていると思われる。


******


私は時々、人間やっているのに疲れる時がある。

言葉を使ってぺらぺらしゃべりあって、

時に傷つき、傷つけ、理解してもらえず、理解できず。

考え過ぎたり、不安になったり、無神経になっていたり。


そういう時は、「アー、犬になりたい、しゃべりたくない」と思ってしまう。



ある日、私はなんとなく心にさざ波が立っていた。

うう、疲れる。人間、疲れる。この気持ち、疲れる。


ふと、犬のベッドで休んでいるとわに目をやると、あごをベッドのへりにのせたまま、じっと私を観察していた。



私は、自然と心から


「いてくれてありがとう」

「うちに来てくれてありがとう」


と言う気持ちが湧き上がってきて、実際に口に出していた。



正直、とわに対してここまでこういった感情が湧くことが今までなかった気がする。

とわは他の犬に比べるとちょっと大変なところがあって、私は必死だったから。

(今も試行錯誤中ではあるが)

他の犬たちには容易く言葉にできていたのに、とわにはなかなかできなかった。

あなたのことは大変だ、という気持ちの方が先立っていた。



とわは、私の言葉を聞いて、ゆっくり一回まばたきをした。


通じた。


ゆっくり一回まばたきは

「うん、わかっているよ」

という意味。


私は、ずっととわに見てもらっていることがとてもうれしく感じられた。

なんなんでしょう、この感覚。


ほっと心をほぐすような温かみと、常にそばにいて見てくれていることがありがたくて。


そうしてやっと、私はさざ波の原因とか、なぜ疲れるのかに向き合えて、どうしたらいいのかちょっと気づくことができる。


それは、とわやそらがそばでじっと私を見ていてくれるからこそできることなんだ、と思った。




私はこういう静かなやりとりが犬とも自分ともできた時、犬と暮らすことは素晴らしい、と感じるのだ。



犬とは限らず、他の動物さんとでも、ね。



これは犬のベッドじゃなくて人のソファと枕






2021-08-24

ドッグランでしゃがむと起きること


ドッグランに行った時、入ってしばらく状況をみたり犬とうろうろした後、私は大体しゃがんでにやにやして犬たちをただ見守っている。

そらは勝手にランの隅々まで歩いたり走ったりして犬と交流したり匂いを嗅いだりしているが、とわは、大体は地面に下ろした途端、とんとこして私に抱っこをせがむ。とんとこしていると彼女自身ずっと周囲の状況に気を回せない。なので、私はしゃがんでしまう。するととんとこできないし、顔が近くなって安心するようで、やがて私から離れてひらひらとランの中を歩き出す。


私が歩き回っていると、とわが私を見失って焦っていることがある。犬ってヒト間違いするよね。「あ、ちがった」って他人の足元でよくやっている。


だから私はやっぱりしゃがんで一箇所にじっとしている。

すると、とわは「ママ大体あの辺にいたよね」と思って安心できるのではないかと思うのだ。

ヤバくなったらママシェルター(私の股の間)に逃げ込んでくればいい。


じっとしゃがんでいると、他のわんちゃんたちも入れ替わり立ち替わりやってくる。


私の股の間に入ってきたり、私の太ももに背中をくっつけて座ったり。

それぞれ思い思いの時間を過ごして、去っていく。

そしてまた戻ってくる犬もいる。リピーターですな。

そのたびに私はますますにやにやして「お、君また来たか、よしよし」と心の中で思っている。

特に声かけもせず、せいぜい「そうかそうか」と言うくらい。


私にとって、至福の時だ。


もちろんそらもとわもやってきて私のまわりでうろちょろして楽しさを連絡してくれて、また去っていく。

他の犬がいてもそんなにやきもち焼いてないかも。



犬は、人間がただじっとしていれば寄りたい子は自分から寄ってくるものだ。


知らない人に

「おいで~」「かわいい!」「さわりたい!」

と騒がれると、寄っていかないか、寄ってきても急カーブで避けたりする。

そんな様子を見て

「じっとしていれば来たい子は来てくれるのになぁ」

といつも思う。

もちろん、最初っから物おじせず赤の他人にいっぱい撫でられたい犬もいるけれど。



犬なりの時間とか距離感とか、犬のペースを守れていると感じる時、私はなんかうれしい。

それは、こまごまとしたことに忙殺される日常生活から遮断され、犬にだけ集中できる時だからこそできることかも知れない。


ドッグランでは、犬に食べ物はあげてはいけないので「ごほうびのおやつをあげなきゃ」と思う必要もない。家の中のように家電にピーピーって呼ばれるようなこともない。犬を構おうと思ったけど「ちょっと待って、トイレ行ってくる」とかもない。


ただ単に、ひらひらと動き回る犬を見守り、寄って来たり去って行ったりする犬をそのまま受け止めていればいいだけの空間。犬と自分だけの時間をくれる場所なんだろうと思う。







2021-08-18

とわの道選び

 

とわは、静かな住宅街よりも、人や車や自転車の多い道を選ぶ。


ぐいぐいあっちゃこっちゃ行ってそんなに歩き方うまくないくせに(言い方)、神経過敏でいろんなことが気になって怖いのに、なぜわざわざ細くて賑やかな道を選ぶのか、最初はわけがわからなかった。


静かで歩きやすい住宅街や緑道へ行こうとしてもがんとして譲らず「こっち!」と強い意思でもってごちゃごちゃした方へ引っ張っていく。


それはなぜなのか。



人間が考える“歩きづらい”道の方が、散歩している犬に会う確率が俄然低いからだ。



犬嫌いのとわ、賢い! でもヒト、歩きにくい!


とわにとっての歩きづらさの基準は、道の広さや人の多さではなく、犬、特に発するエネルギーが強い犬がやたらいるかどうか、なのだ。


犬にとっての散歩は、「楽しむ」ことだと思うのだけれど、

「楽しむ」ためにはとわなりの「安全」が前提なのだ。

それは、「他の犬がいない」こと。



なんだか、私にも当てはまるなぁ、と思った。


私もいろいろとやりたいことがあったり手に入れたいものがあって時に大胆な行動に出ることがないこともないのかも知れないけれど、いつも絶対に安全な方法とペースでやりたい方だ。ひらめきや直感でパッと思いついても、それで本当にいいのかすごーく調べて慎重~に考えて何度も確認して、納得できたらやっと決定して動く、という感じ。


自分のペースで、ゆっくり時間をかけられると安心する。

ささっとぱぱっとスピーディに、とりあえず飛び込んでみよう!買ってみよう!とか不安でできない。

しかし、考えるのに疲れて「ええい、いいや、いったれ」と最後に雑になるところも私だ。


まぁ、そんな話は置いといて、


とわ自身が身の安全を確保しつつ楽しみたいもの楽しむためにはどうしたらいいか、一生懸命考えたんだかひらめいたんだか経験から学んで決めたんだが、いずれにしても選択に脱帽だし、愛おしい。


あと、ある不動産屋さんのガラス張りの一階に柴犬がいるのだが、ガラス越しなら安全に戦える、ととわは心得て、毎度そこへ向かってガラス越しに一戦を交えようとする。



目的(=安全に楽しみたいものをとことん楽しむ)を達成するために今日も人と自転車をかわしながら歩道をすたすたと歩き進めるとわの姿に、



自分の目的を達成するために、私はどの道を選ぶのか?



朝っぱらから問われた気分だった。



ひとけのない(いぬけか?)公園さがしもウマイです








2021-08-13

犬の最期を看取れないことについて

本日は琴の命日。丸3年経った。


私は、風太の最期は看取れ、琴は看取れなかった。


私は常に風太にお願いしていた。

「うんと長生きしてね。いっくらでも介護するし、喜んでさせてもらうよ。そして旅立つ時は一緒にいさせてね」

と。


風太は

『いやあ、介護なんてごめんだね』

『でも、看取らせてあげるよ。しょうがねえな』

と、看取ることは願いを聞いてくれたと思っている。

介護の方は嫌だったようだ。


それまで元気に散歩したり食べたりしていたのに、ある夕方に具合がわるくなって、夜通し見守って、翌朝、家族が見守る中、旅立った。15歳と8ヶ月だった。


私は、ちょうど友人のブログのコメントに、「風太はもうすぐ16歳だけど、なってほしいけど、なれるとは限らないのよね」みたいなことを書き込んで、その通りになってしまって、切なかった。「書くんじゃなかったなぁ」と思ったが、私も何か無意識に感じて書いたのだろう。



琴は、風太が旅立つ瞬間を一緒に見ていた。

病院へ向かうカートの中だった。

風太はこういう時は抱っこされたくないやつだとわかっていたので彼を尊重してカートの中に横たわらせたまま、私がしゃがんで風太を覗き込み、撫で、瞬きをせずその瞬間を見届けた。


琴は立って見守っている夫に抱っこされて一部始終を見ていたと思う。


私は当然、その瞬間からしばらくの間、日々悲しんでいた。

風太を思い出し、求め、泣いた。

琴は、そういう私と一緒にいた。



琴はすべてを見てきて、決めたのだと思う。

『私は、ママに、看取らせない』

と。


『ママがこんなに悲しむこと、私はしない』

と。


そして、

『でも、ママが好き過ぎて別れる時が決められないから、離れるのがよくわからない状態で逝きたい』

と。


琴の魂が、そう計画したと私は思っている。

それで、治療を頑張ってがんは寛解したのに、あちこちの神経に梗塞を起こして麻痺して動けなくなって意識がほとんどないまま、入院中に旅立った。



私は琴の最期に一緒にいて看取りたかった。家に連れて帰ってあげたかった。

風太の時のように、旅立つ瞬間に一緒にいたいと思っていた。

琴は、私の腕の中で逝ってほしいと願っていた。


ところが、抱っこどころか、入院しているケージの中で、逝ってしまった。

面会に行った数時間後だった。


私はやっぱり切なかった。琴はきっとさみしくて、ママとパパに会いたくて、家に帰りたかったろうに、申し訳ない、と思った。



でも、果たしてそうだろうか?

申し訳ないことだったのか?


この別れ方は、琴の魂が望んだことではないのか?



琴は、脳圧を下げる薬などを点滴されたまま数日間、意識がほとんど無い状態だった。

私は毎日面会に行った。


今まで何度も琴は甦って家に戻ってきたけれど、この時ばかりは「この姿では、とても元に戻れる気がしない…」と感じ毎度涙が出た。そんなことは初めてだった。


信頼していた先生やスタッフさんたちであり、きれいな病院だったので「ここで逝くならいい」と思うことはできていた。

だができれば退院できるくらいの元気を取り戻しもらいたいのが一番の願いでもあった。



その日は、一段とケージの中の空気が澄んでいるように感じられた。

両手を琴のボディに当てヒーリングをしていると、ふっ、と空間に風太の魂のエネルギーが感じられた。


実はその日の朝、私は切羽詰まって、あらゆる存在に琴を助けてくれるよう祈っていた。

既にあちらの世界にいる風太や祖母、今までアニマルコミュニケーションやヒーリングをさせていただいた動物たちで、天でもしそんな役割も持っている子たちがいれば、助けて、とお願いしていた。


「風太、来てくれたんだね」

「風太がいれば、琴も安心だね、ありがとう」

と心の中で言った。


風太はもう別の肉体に生まれ変わっているはずなのだけど、来れるんだなぁ、と思った。心強かった。


そしてもうひとつ、わんちゃんのエネルギーがいることが感じられた。



「だれ?だれか、来てくれたんだね!」


前に感じたことがあるエネルギーだった。

私が思い出そうとしていると、ふとある犬のイメージが浮かんだ。


それは、以前アニマルコミュニケーションをさせていただいたわんちゃんのエネルギーだったのだ。


「来てくれたんだ…ありがとう」


私は驚きと共に感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。


薬で眠り続ける琴は、このふたつの美しいエネルギーに寄り添われていて、私は安心できた。

こんなに美しく静かで澄んだ空間にいるのなら、大丈夫だ、と。



以前、風太に、死ぬ瞬間どうだったのかアニマルコミュニケーションをして聞いたことがある。


それはそれは言葉にできない美しく眩しいくらいの光に照らされ導かれ、その光に夢中になる感じで、もう下界のことなんてどうでもよくなる感じ。

「それ!そっちがいい!」と思わせるような圧倒的な光だった。


私は「うわぁ…それはそっち行くなぁ」と素直に感じた。

こんなふうなのなら、よかったな、と思った。


これが本当かどうかは証明しようがないけれど、琴が、風太とあるわんちゃんの魂に付き添われてあのような美しい光に包まれ天に向かっていったのなら、それでいい、と思う。



ぐだぐだ考えはするけれども、琴が私に最期を看取らせたくなかった気持ちも、よくわからないまま私と離れたいという決意も、よく理解できた。


それは、琴の優しさと勇気だったのだ。

私は、琴を誇りに思った。


風太はカッコイイ男だったので、本心は『死ぬとこなんて見せたくないんだぜ』と思っていただろうに、『だけど見たいっていうなら見せてやるさ、しっかり見てろよ』と風太らしい優しさ全開で私にその機会を持たせてくれた。


琴は自分の弱い部分…私と離れるのが怖い…という部分を最大限守れる方法=ある病の症状、つまり発作で昏睡状態になるという計画をし、琴なりの優しさで、私を悲しませまいと自分の旅立つ瞬間を見せなかった。




どっちも大きな愛なのだ。



いろんな動物さんとアニマルコミュニケーションをしていても、旅立ち方とその意図にはいろんなパターンがある。


本当は静かで暗いところでひとりで旅立ちたいけれど飼い主さんの希望を叶えるべく、その瞬間腕の中に入ってきてから旅立った子、

もうがんばれない、迎えに来てほしい、と病院の中から訴える子、

安楽死によってとても楽になれたと感じている子…



看取れること、看取れないことなんてたいして関係ない、というか、死に方はそれぞれの魂の選択と計画であり、だいじなのはそこには互いを想い合う愛がある、ということだけだ。


動物の旅立ち方にも魂の目的・体験したかったこと・意図が含まれていて、動物の魂の選択は、尊重するしかないのだ。


そして、その体験を通して動物も人間もまたひとつ経験が増え、成長できる、ということだ。



動物の旅立ち方の選択・意図・意味について知りたい時、アニマルコミュニケーションはとても有用だと思う。



2017.7.26 軽井沢にて 琴13歳



2021-08-12

果たせなかった言霊

私が初めてアニマルコミュニケーションのセッションを受けた時のこと。 
琴が2歳、15年前のことだ。

私がアニマルコミュニケーションを学ぶ前で、興味を持ち始めた時で、本当は先輩犬の風太の分で予約をしていたのだが、風太が急遽入院したので、代わりと言っちゃなんだが琴で受けさせてもらうことになった。 

セッションでは、『オーラリーディング』が行われ、事前に提出していた私たちから琴への『質問への答え』をもらい、必要であれば『過去世』も伝えられ、それらを総じて琴にとって必要であるとされる『言霊』が授けられる。

私達夫婦が兼ねてから疑問に感じていたことは、琴と一緒に家の車に乗っている時のことだ。

普通に乗っている間は静かにしているのだが、ブレーキを掛けギアをバックに入れると急に怯え出してキュルキュルと鳴きあたふたとうろたえだすのだ。そしてハンドブレーキを引くと決まって急いで運転者の膝に飛び乗ってくるのだった。

なぜそうなってしまうかは、過去世も関わっているとのことで1世代前の過去世についても教えてもらった。その過去世の体験によって植え付けられたネガティブなプログラムを解くために必要な言葉が『言霊』だった。


言霊は三つの文になっていたが、そのうちのひとつに

『絶対にパパとママが看取るからね』

というものがあった。


私は内心、「え、もう死ぬ時のことを言うの?」と思った。



琴の過去世の犬は大型犬で、カリフォルニアに女性と住んでいて、ある日女性が運転するピックアップトラックの荷台に乗っていた。女性が車を停め道路を横切ろうとした時、車にはねられてしまった。犯人は逃げた。犬は荷台に繋がれていたままだったので、女性の元に駆け寄ることもできず、女性は搬送されて亡くなってしまった。
女性は離婚していて、二人いた子供の親権は元夫が持っていて独りだったので、彼女の両親が犬を引き取った。両親は結局経済的にもその犬の世話ができない、との理由で犬を手放すことにし、犬は安楽死させられた。

このことから、琴は飼い主の私が心配でしかたなく、また飼い主がいなくなってしまうと自分の生も大幅に変わってしまう…という強い不安感と恐怖と悲しみがネガティブなプログラムとして魂に刻まれ、現世に影響を及ぼしているとのことだった。

『車が止まった→飼い主が外に出る→飼い主が危ない!→ゆくゆくは自分も危ない…』
というふうに、琴の魂が反応していたということだ。

なので、「今世ではそういうことはない、車の運転も、車から降りた後も十分に気をつけるから、何があっても琴とずっと一緒だから、絶対手放さないから」と伝え続けるといいとアドバイスを受けた。

そして授けた言霊を言ってあげると、魂が癒され、徐々に今抱いている不安も和らいでくる、と言われた。


私はそれを信じ、それらの言葉をよく琴に話していた。

まだピチピチなのにもう看取る時点のことに言及するということに若干奇妙な感じはしたのだけれども、壮大なスパンで生を捉えた大事な話だとも思い、また自分としても琴を看取りたい気持ちは当然あったから、律儀に琴に言い続けた。

すると、琴が車内でうろたえ膝に乗ってくる問題は徐々に和らいでいき、やがて無くなった。
私がちょっとでも離れるとピーピー言っていたのもよくなっていった。

彼女が生きていく上で安心感が増したのならよかった、と思った。



…しかし、現実として、私達は琴を看取れなかった。



嘘ついてしまった。

私は、琴に嘘をついてしまったんだ。



ずっと、ずっと「看取るからね」と言ってきて、ずっと一緒に生きてきて、一番肝心の最後のとこで。



私、授けられた言霊を信じたせいで嘘つきになってしまった。



私は看取りたかったけど、琴の魂は看取られる選択をしなかった。
それはわかるし納得せざるを得ない。


では、肉体としての琴は?

私とべったりだった琴。超ママっこだった琴。
入院した時も面会に行くと抱っこをせがみ、離れたがらず、家に一緒に帰りたがった。

肉体の琴は、意識が混濁している時でさえ、病院のケージから出て、私と一緒に家に帰りたかっただろう。


やるせない。


せめてこう考える。

琴が最後の発作を起こし入院するまでは、家に私とずーっと一緒にいたのだ。
発作は夜のベッドルームで起こった。私はそこからずーっと琴を抱きしめていた。
意識のある最後の瞬間、私は琴といたし、抱きしめていたんだ。




このことで私は学んだ。


結局未来のことは誰にもわからない。

どんなに透視できるだの霊感があるだのチャネリングができるだのメッセージが受けられるだの占えるだの言っても、100%わかることは、無い。



看取れるか、看取れるかなんて、わからない。

どれだけ生きるのかも、わからない。

どんなに「看取るぞ」とか「長生きするぞ」と決めていても。



だから私が今後アニマルコミュニケーションをして言霊を伝えることがあるならば、絶対に未来を約束するような言霊は使わないことにしようと決めている。



私のように、やるせない思いをする必要はない。



私は一番最初にそこの先生に学んで大変勉強になったし感謝しているが、学んでいる時にどうしても馴染めなかった方法があった。

それは、飼い主にわかってもらうためにあえてインパクトの強いことを言ったり言わせたりすることだった。

それは例えば、多頭飼いの動物の中である子とある子ではどっちが好きか飼い主に質問してみたり、こうして死ぬ時のことだったり。

確かに、ショック療法みたいに、こういったふだんあまり口にしないことはインパクトが強過ぎて心に刺さってきて、自分で初めて認識する体験にもなって、記憶にしっかり刻まれて、それまでより視野が広がる、とは思うので効果的ではある。嘘やインチキでもないし、それだけ重大なことであることをわかってもらいたくて、よかれと思ってのこととも重々承知している。

でも、「どっちの方が好きか」という質問は、動物もしっかり聞いていて傷ついているのを何度も見てきたし、生死に関わることで約束を果たせないことだって起き得るのだ。


アニマルコミュニケーションは誰のためにやるのか。

第一に動物のためではないのか。

動物のことを一番に考えれば、飼い主にショック療法的にインパクトを与えることによって、うまく作用する時はいいが、かえって動物の気持ちを傷つけたり大事な約束を守れなくするなんて、本末転倒になってしまうのではないか。

だから、私は故意に飼い主さんにショックを与えるようなアニマルコミュニケーションは絶対にやってはならないと思っている。それは傲慢だし、本来の目的を見失っている。
(これは、動物さんが伝えてきたことを伝えたことによって飼い主さんが何かしらショックを受けることとは違う)


飼い主さんにわかってもらう方法も伝え方も他にいくらでもある。


私は私のルールと優しさの種類でアニマルコミュニケーションを行いたいと思う。


2013.12.10 in New York 琴9歳

2021-08-02

ヴィーガンカプセル

私はヴィーガンでもベジタリアンでもない。

犠牲になる動物のことを考え、


『必要以上に肉類を食べない』

『なるべく非動物性製品を選択する』


という感じである。

(「犠牲になる」という動物自身の魂の選択もあるんだろうけれども、それによって「人間に何かを伝える、考えさせる」という役割もあると思うし)


動物性タンパク質なら基本的に魚介類か鶏肉、卵なら売っていたら平飼い卵。

乳製品は健康のためは少ない方がいいだろうと思って減らし気味だが摂る。

革製品と羽毛製品は新しく購入しないよう努めている。


一方、夫に牛・豚肉を使った料理も作るし、彼が革製品を買うことを気にとめないし、犬には肉類の入ったフードをあげている。


人が作ってくれたり買ってきてくれたものや人と一緒の食事などでは牛・豚肉もいただく。

そこには単に『食べる』ということ以外の要素も含まれていると思うから。


ただ、代替肉とか、革製品や羽毛の代わりになりかつ質もなかなかいいものがどんどん普及する世の中になるといいな〜、と思っている。



で、今日はカプセルについての話。


医薬品については、病気や怪我を治すことが目的で成分を選ぶ余地がないので諦めているが、サプリメントについては自分で選択可能だ。


サプリメントには主に錠剤タイプ・カプセルタイプ・液体タイプがあり、体内での吸収速度・運搬のしやすさ・栄養分の品質保持・飲みやすさなど様々な目的のために各タイプが存在するのだと思うが、多くのカプセルにゼラチンが使われている。

錠剤でも使われているものがある。


ゼラチンは、主に牛や豚など動物の皮や骨などから作られる。


日本でサプリメントの原料をチェックすると、ゼラチン使用のものが実に多い。


アメリカでは植物性原料のカプセルのサプリメントが手に入りやすかったので、そういったものを購入していた。

今は、iHerbで取り寄せたり、夫がアメリカに出張した時に買ってきてもらう。



更年期症状にブラックコホッシュ
ホールフーズのもの


上の方にVegan Capsule
真ん中くらいにModified Vegetable Celluloseとある


免疫アップが期待できるエキナセア


上の方にVeg Capsules
真ん中くらいにCellulose(capsule)とある


日本でも植物性カプセル使用のサプリを見つけた時はとても嬉しかった。


それは、分子生理化学研究所という会社が製造しているワカサプリというシリーズだ。

カプセルはとうもろこしや海藻から作られていて、他の原料から作られているものに比べて体内での崩壊が早いらしい。


主成分には動物性のものを含んでいるものもあるからVeganとはいえないが、カプセル自体はとにかくゼラチンを使っていない!ありがたい。



肉類を摂らなかった日は
ワカサプリの亜鉛を

あといろいろ持っていたけど飲み切ってしまった。また頼まないと。


可能なのであれば、こうして世のサプリメントが、そしてできれば医薬品も、どんどん植物性のヴィーガンカプセルに置き換わっていってくれたらいいな、と思う。