2022-02-17

そらに生まれ変わった犬

私は、キッチンで洗い物をしながら、歌を歌っていた。

以前あったポメパラというサイトのBGMに使われていた南国チックなメロディーで気に入っていた曲があった。そのメロディーに、かつて一緒に暮らしていた犬の名前をのっけて歌っていた。


傍でそらがあっちを向いて伏せていた。


そらを迎える時、たぶん、私がアフリカで暮らしていた時の犬の生まれ変わりだろうと夫と共に考えてはいたのだが、10匹いたうちのどの子だかわからなかったし、アニマルコミュニケーションをしてちゃんと確認したこともなかった。そろそろ聞いてみようかな~と思ってはいた。


順に犬の名前を歌っていっても、そらは全く反応しない。

「この子では?」と思っていた子のパートで、反応無し。

今朝あげたフルーツと同じ名前の子のパートでも反応無し。

「フルーツくれるの?」と勘違いして振り返るかな、と思ったが、振り返らないので「そもそも歌を聞いてないのか~」と思った。


かまわず引き続き歌っていると、一番長老だった犬の名前でそらがガガッと振り返った。


私は驚いて「えっ、そら、もしかしてゴローの生まれ変わりなの?!」と聞くと、そらがまばたきをした。


それから何回聞いてもまばたきをした。

そしてにこにこ寄ってきて、喜ぶ仕草をし、いつもと違う変なお尻の振り方をした。

(今思うとラブラドールっぽかった?)


私は心底びっくりしたが、同時に胸がズキューン💓と反応して、確信した。

そらはゴローの生まれ変わりなんだ。


四十年の時を経て、私のところに戻ってきてくれたんだ。


嬉しくて、感動して、泣けてきた。


今まで、「風太と琴が死んだ時、生まれ変わってきてまた一緒に暮らしたい!と思いはしたけど、実際もし生まれ変わって今そらやとわなんだとしても、ふーん、としか思わないよね~不思議だね~」なんて思っていたけれど、あのゴローが!!と思ってこんなに胸が熱くなって泣けてくるのはなぜなんだろう??



ゴローはイエローのラブラドールレトリバーで、アフリカの社宅に到着した時点で成犬として居たので、前任者が飼っていたのだと思われる。


まだ小五だった私。車から降りた半ズボンの私の太ももをゴローはベロベロと舐めてきた。今思うと、広大な庭の先にあったその門は、ゲストが来た時に使う門であり、ふだん使っていた門ではなかったので、好奇心旺盛にわざわざ降りてきてくれたのだろう。

尻尾をブンブン振り、ベロベロ舐めまくってくるゴローを私は一瞬で大好きになった。傍に白いポメラニアンのビーバーもいた。


それから生まれて初めての犬と暮らすアフリカ生活が始まった。


ある日の夜中にビーバーが庭の門の下をくぐり抜け外に出てしまって車の事故に遭い急逝し、11歳くらいだった私は狂ったように泣いた。それを見て、感じて、寄り添ってくれていたのはゴローだ。自分も悲しかっただろう。


やがて父が新たにオレンジのポメラニアンの子犬を迎えてくれた。

私はうれしくて、ゴローと共に可愛がった。基本的に犬たちは庭で暮らしていた。時々ポメラニアンだけ家の中に入ることが許された。たぶん小型犬だったからだろう。かといって特段犬用ベッドやお皿があるわけではなかった。


そのうち、父が「老犬とポメラニアンじゃ番犬にならない」と考えたのか、ドーベルマンやらシェパードの子犬たちがどんどんやってきて、気づくと10匹の犬が私の家族になっていた。


私が庭に出て動くと全員でぞろぞろついてくる。広い庭の隅々まで一緒に歩いた。

犬が興味を持つものに私も興味をもち、「なになに?」と見入り、見せてもらう。

犬と一緒に草の上で追いかけっこをし、くんずほぐれつ転げ回った。

犬用シャンプーなんてものは無かったので台所洗剤で庭のホースから出る水で洗う。洗った後、犬たちが芝生でボディをすりすりしまくって水気を取るのを見てゲラゲラ笑った。

私はよくゴローの背中をロングストロークで撫でた。独特の匂いと脂分を感じた。座るゴローの背中に腕を回して抱きしめた。


ふだんは絶対に家に入ってこないゴローが、雷が凄かった夜、引き止める人間を振り払って家の中に入ってきた。いけないことをする子ではなかったので「こんなにだめ、と言われているのを押し切って逃げてくるほどこわかったんだ!」と私は思った。


アフリカではよくあることだと思うのだが、季節によって動物の耳たぶに吸血する蠅がたかる。垂れ耳のゴローは蠅のかっこうの餌食になってしまい、薬を塗ってはいたが、ある時耳たぶから大量に出血してしまった。それでなぜか離れた犬小屋にしまわれてしまって、ゴローは大声で「出して!」と鳴き続けていた。


どこかのよそのメスの発情期に、ビーバーと同じようにどうにかして門をくぐりメスを求めて外に出て行ってしまうのだが、ある朝、傷だらけになって戻ってきて、庭のスプリンクラーで体を冷やしているのを見て、複雑な気持ちになったものだ。そこまでするのか、どうやって閉じた門の狭い隙間を抜け出して行ったのか…という思いと、負けてすごく悔しいんだろうな…という思いと、傷が痛そうでかわいそう…でもなんかちょっとコメディっぽい…という思いと。


一番年上だったゴローは悠々として優しかったが、何度か若い犬に怒ったのを見たことがある。一度はポメラニアンが一喝されて気絶してしまい、死んでしまったのかと思って慌てた。


ゴローは推定15歳、みたいな話だったけれども、実際のところはわからない。今思うと8歳〜10歳くらいだったのではないかと思う。現代のようにフィラリア予防薬や狂犬病ワクチンをしていたとは思えず、ゴローは他の犬に比べると長生きで歳をとっていた感じであった。


私は、途中でイギリスの学校で寮生活を送ることになったので、学期が始まって寮に戻る日が最後のお別れになってしまった。


ある日、母が窓から庭を眺めながらキッチンで洗い物をしていて、その庭の真ん中に横たわっていたゴローが、ふと頭を上げ、母を見て尻尾を数回振り、頭を芝に下ろした。ゴローが旅立った瞬間だったという。母は「今までありがとう、行くね、って挨拶してくれたんだと思う」と言ってた。



それから四十年の間にゴローの魂は何度も生まれ変わり、いろんな体験をして、今回『ポメラニアンになって、ポメラニアンと共に、子犬の時からさいごの時まで“あの時の女の子”と生きるんだ』と私たちの家族になることを決めてくれたことに感動した。



だいぶおばさんになっていた“あの時の女の子”ですが。



やっと気づいたかね




怒涛の二ヶ月半

12月初旬に母が骨折して入院し、その隙に以前から気になっていた実家の物の整理に着手した。

一番気になっていたのはキッチン。冷蔵庫や収納棚、シンクの上も下も数日かけてきれいにした。すごくすごく大変だった。なぜこんなに物を溜め込むのか…私にしたら考えられなくて、最初は「これできれいにできるぅ♪スッキリするぅ♪」と嬉々としてやっていたが、途中から腹が立ってくるほどだった(笑)

やってもやってもきれいにならない気がして、毎度全然スッキリしなかった。


古くなっていた掃除機や寝具を買い替え、洗濯物が低い箇所で楽に干せるように洗濯物干しラックを買った。そのほかの箇所の放置された汚れも数日かけて掃除した。


一方、父は最初は電子レンジも使い方さえ知らず、ガス火の取扱も心配だったので、IH調理器を購入し卓上で安全にお鍋をできるようにした。しかし、材料は全て買ってきて、切って盛り付けて用意してあげないといけなかった。味にうるさいので何でもいい訳でなく、何か買ってくるにしても気に入ってくれるか苦心した。


毎日同じ道を片道45分かけたドライブは段々飽きてきて苦痛になってきた。運転は好きだったのだが…好きな音楽も助けにならなくなってきた。





そうこうしているうちに年末を迎えた。

真夜中に、たまたま枕元に置いていたiPadとiPhoneが鳴って驚いてすぐ出た。

海外駐在している弟からだった。


地方で独り暮らしをしている祖父が自宅で亡くなっていた、との連絡だった。

セコムの見守りサービスに入っていたので、ある時から家の中の生体反応が無くなっていることがわかり、セコムの人がかけつけてくれ、警察もすぐに呼んでくれたが既に息を引き取っており、病死とのことだった。


高齢ではあったので仕方がないことではあるが、元気に暮らしていたはずの祖父が急に独りで旅立ってしまったことのショックに続き、ふと考えてみると、母は入院中・父は足が悪く遠方へは動けない・弟は海外在住・祖父の妹も入院中・夫は仕事…ってことは、「これから私ひとりで全部やるってこと?!」と、震えてきた。


なんだか全てが怖くなった。


幸い祖父の姪夫婦が祖父と同県に住んでいるので、彼女たちを頼ることができ、大いに助けられた。私は急いで新幹線とホテルを予約し翌日現地に向かった。



雪で徐行したため少し遅れた



祖父が生前予約と支払いを済ませてしていたというわりと立派な葬儀場と打ち合わせをするためそこに行って待っていると、警察から祖父の亡骸が戻ってきた。その瞬間、申し訳なさと悲しさが込み上げてきて涙が止まらなくなった。


気を取りなおし、祖父が申し込んでいた葬儀プランを確認していくと、あれもこれも付いてなくて、オプションで選択し追加していかなければならなかった。「それも?」「これも?」という状態でもはや笑えてきた。

それを横で聞いていたかもしれない祖父の顔は、なんと、笑っていた。

思わず葬儀会社の人に「何か、“笑顔にするサービス”でもあるのですか?」と聞いてしまったほどの笑顔だった。先に旅立っている祖母が迎えに来てくれて、久しぶりに出会えて嬉しかったのかな?なんて思った。


コロナ禍なので、葬儀は私と姪夫婦と東京からかけつけてくれた義理の妹の4人だけで執り行なった。弟はライブ配信で葬儀に参加。すごい世の中になったものだ。


祖父は旅立つ日の午前中まで銀行に記帳に出かけていたことがわかったので、本当に急な大往生だったのだと思う。



おでこに癖のオレ


大晦日に東京に戻ってからは、祖父の家からとりあえず掴んで持ち帰ってきた書類等と格闘し、役所等の手続きを行った。これもなかなか大変であったが、東京から電話や郵便でできたことが多かったのでよかった。


年金停止手続き・健康保険証の返却・住所録のチェック・口座引き落とし先のチェックや連絡・遺言書の取扱のチェックと手配・逝去通知ハガキの作成と発送・香典返しの手配などなど…世間知らずの私はまず何をするべきか調べ、それをやっていくことはなかなか大変であったが、夫やインターネットに助けられた。


そして、うちの事情はやや特殊なのでそれに付随する手続きも多く、まだまだ続く。

司法書士や税理士に相談する必要もある。



そんな中、母が退院することになった。


退院前夜、「病棟内でコロナ患者が発生した」と母からメールが入った。

入退院の手続きが一旦停止となり、退院が延期になってしまった。

「何?このいろいろ続く感じ」ともはや笑えてきた。

幸い母は濃厚接触者でもなくPCR結果も陰性であった。


しかし、「病院側に退院を待ってほしい、入退院手続きは一旦停止、と言われた」と理解した母と、「強制した覚えはない、いつでも退院できた、そう伝えた」と言う病院側と、「入院延長分の料金請求について理由と内容の説明を求める」という私で、しばし支払い手続きは保留となった。


後日私は病院に呼び出され、病院側3人対私1人で話し合いの場を持たされた。

私は(こんなん電話でいいんだけどなー)と思っていた。


たぶん、患者家族からクレームが少なくないのだろうが、なんだか勝手に向こう側が臨戦体制のかほりを醸し出していたんですけど、結局「延長分の差額ベッド代は病院側が持つ」という方針を病院は用意していたみたいで、私は最初からそこだけ求めていたので(延長期間の食費・リハビリ代・診察代等は元々支払うつもりであった)「最初に言ってくれりゃよかったのに」と正直思ったが、まぁ結果オーライである。



母が退院してからも、掃除や洗濯以外にも買物もして持って行っていたが、ネットでできるような内容だったので、私も祖父の件でかなり忙しく、ひざも痛めていて、なんだか「私、何やってんだろう」感が出てきたので、ネットスーパーを学んでもらうことにした。ぶつぶつ言いながらも頑張ってくれているようだ。



そして先日、四十九日法要と納骨を行なった。

今度は犬は預け、夫も一緒に。

弟も帰国し1週間の自宅検疫を終えて義妹とやって来た。



新幹線に乗る前に品川駅のSarabeth'sで
Lemon Ricotta Pancakes いや〜何年ぶり



法要当日約束の10時前にお寺に着いて呼び鈴を押すと、お寺の方に「え、11時開始ですよね?」と勘違いされたり(10時の予約で正しい)、作っていただいた祖父の本位牌を持って納骨堂に行くと、既にある祖母の位牌の戒名が片方に寄って書いてあり、「え、本当は祖母の戒名の横に祖父の戒名を書かなきゃいけなかったんじゃん…」と気づく、など、ちょいちょいトラブルはあったけれど、位牌はとりあえずそのまま二つ並べることにして、法要と納骨を終えることとなった。


「帰りの新幹線の時間があるので、法要の食事と支払いを○時までに終えたいのでコースの進行を早めでよろしく」とホテルのレストランに伝えてあり、急いで進めてくださったのだが、最後に「クレジットカードの機械が壊れました」とのことで支払いに時間がかかった。笑笑

それでも駅でお土産を買う時間があったのでよかったよかった。

あとはペットホテルの閉店時間までに犬たちを迎えに行くのみだ。



怒涛の二ヶ月半。


自分が“やらなきゃいけない”こと、とはいえ、でも結局自分が“やりたくて”やっているのだ、と考え取り組んでいたものの、ずーっと他者のことに取り組んでいると、自分自身がすり減ってくることを体感した。


時間と体力が搾取され続けているような感覚になり、疲弊し、余裕も無くなり、生活の中に楽しいことなんて何も無い、と感じ、朝起きてもやるべきことが頭をもたげ、知らないことやわからないことで不安になったりしているうちに、自分が何を好きだったか、わからなくなってしまった。



自分は何が好きで、自分にとっての幸せって何だっけ?


わからない…



そんな時は「今日は何もしない!」と決めてだらだらしてもみた。

「眠っている間に宇宙に飛ばして癒してください」とお願いしたりもした。



法要から帰って来てやっと、心ここに在り状態で犬の散歩に出られているように思う。

それまでは心ここに在らず、だった感じ。



一方で、祖父の死や両親の老いと向き合ったことで、私は自分の生を強く意識した。


生きるって大変だけど、やっぱり楽しいから、それ知ってるから、私は生きたい、いっぱい生きたいぞ!と思ったのだった。




おふくろのスリッパ確保


ぬくぬく ねむねむ…