2021-08-13

犬の最期を看取れないことについて

本日は琴の命日。丸3年経った。


私は、風太の最期は看取れ、琴は看取れなかった。


私は常に風太にお願いしていた。

「うんと長生きしてね。いっくらでも介護するし、喜んでさせてもらうよ。そして旅立つ時は一緒にいさせてね」

と。


風太は

『いやあ、介護なんてごめんだね』

『でも、看取らせてあげるよ。しょうがねえな』

と、看取ることは願いを聞いてくれたと思っている。

介護の方は嫌だったようだ。


それまで元気に散歩したり食べたりしていたのに、ある夕方に具合がわるくなって、夜通し見守って、翌朝、家族が見守る中、旅立った。15歳と8ヶ月だった。


私は、ちょうど友人のブログのコメントに、「風太はもうすぐ16歳だけど、なってほしいけど、なれるとは限らないのよね」みたいなことを書き込んで、その通りになってしまって、切なかった。「書くんじゃなかったなぁ」と思ったが、私も何か無意識に感じて書いたのだろう。



琴は、風太が旅立つ瞬間を一緒に見ていた。

病院へ向かうカートの中だった。

風太はこういう時は抱っこされたくないやつだとわかっていたので彼を尊重してカートの中に横たわらせたまま、私がしゃがんで風太を覗き込み、撫で、瞬きをせずその瞬間を見届けた。


琴は立って見守っている夫に抱っこされて一部始終を見ていたと思う。


私は当然、その瞬間からしばらくの間、日々悲しんでいた。

風太を思い出し、求め、泣いた。

琴は、そういう私と一緒にいた。



琴はすべてを見てきて、決めたのだと思う。

『私は、ママに、看取らせない』

と。


『ママがこんなに悲しむこと、私はしない』

と。


そして、

『でも、ママが好き過ぎて別れる時が決められないから、離れるのがよくわからない状態で逝きたい』

と。


琴の魂が、そう計画したと私は思っている。

それで、治療を頑張ってがんは寛解したのに、あちこちの神経に梗塞を起こして麻痺して動けなくなって意識がほとんどないまま、入院中に旅立った。



私は琴の最期に一緒にいて看取りたかった。家に連れて帰ってあげたかった。

風太の時のように、旅立つ瞬間に一緒にいたいと思っていた。

琴は、私の腕の中で逝ってほしいと願っていた。


ところが、抱っこどころか、入院しているケージの中で、逝ってしまった。

面会に行った数時間後だった。


私はやっぱり切なかった。琴はきっとさみしくて、ママとパパに会いたくて、家に帰りたかったろうに、申し訳ない、と思った。



でも、果たしてそうだろうか?

申し訳ないことだったのか?


この別れ方は、琴の魂が望んだことではないのか?



琴は、脳圧を下げる薬などを点滴されたまま数日間、意識がほとんど無い状態だった。

私は毎日面会に行った。


今まで何度も琴は甦って家に戻ってきたけれど、この時ばかりは「この姿では、とても元に戻れる気がしない…」と感じ毎度涙が出た。そんなことは初めてだった。


信頼していた先生やスタッフさんたちであり、きれいな病院だったので「ここで逝くならいい」と思うことはできていた。

だができれば退院できるくらいの元気を取り戻しもらいたいのが一番の願いでもあった。



その日は、一段とケージの中の空気が澄んでいるように感じられた。

両手を琴のボディに当てヒーリングをしていると、ふっ、と空間に風太の魂のエネルギーが感じられた。


実はその日の朝、私は切羽詰まって、あらゆる存在に琴を助けてくれるよう祈っていた。

既にあちらの世界にいる風太や祖母、今までアニマルコミュニケーションやヒーリングをさせていただいた動物たちで、天でもしそんな役割も持っている子たちがいれば、助けて、とお願いしていた。


「風太、来てくれたんだね」

「風太がいれば、琴も安心だね、ありがとう」

と心の中で言った。


風太はもう別の肉体に生まれ変わっているはずなのだけど、来れるんだなぁ、と思った。心強かった。


そしてもうひとつ、わんちゃんのエネルギーがいることが感じられた。



「だれ?だれか、来てくれたんだね!」


前に感じたことがあるエネルギーだった。

私が思い出そうとしていると、ふとある犬のイメージが浮かんだ。


それは、以前アニマルコミュニケーションをさせていただいたわんちゃんのエネルギーだったのだ。


「来てくれたんだ…ありがとう」


私は驚きと共に感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。


薬で眠り続ける琴は、このふたつの美しいエネルギーに寄り添われていて、私は安心できた。

こんなに美しく静かで澄んだ空間にいるのなら、大丈夫だ、と。



以前、風太に、死ぬ瞬間どうだったのかアニマルコミュニケーションをして聞いたことがある。


それはそれは言葉にできない美しく眩しいくらいの光に照らされ導かれ、その光に夢中になる感じで、もう下界のことなんてどうでもよくなる感じ。

「それ!そっちがいい!」と思わせるような圧倒的な光だった。


私は「うわぁ…それはそっち行くなぁ」と素直に感じた。

こんなふうなのなら、よかったな、と思った。


これが本当かどうかは証明しようがないけれど、琴が、風太とあるわんちゃんの魂に付き添われてあのような美しい光に包まれ天に向かっていったのなら、それでいい、と思う。



ぐだぐだ考えはするけれども、琴が私に最期を看取らせたくなかった気持ちも、よくわからないまま私と離れたいという決意も、よく理解できた。


それは、琴の優しさと勇気だったのだ。

私は、琴を誇りに思った。


風太はカッコイイ男だったので、本心は『死ぬとこなんて見せたくないんだぜ』と思っていただろうに、『だけど見たいっていうなら見せてやるさ、しっかり見てろよ』と風太らしい優しさ全開で私にその機会を持たせてくれた。


琴は自分の弱い部分…私と離れるのが怖い…という部分を最大限守れる方法=ある病の症状、つまり発作で昏睡状態になるという計画をし、琴なりの優しさで、私を悲しませまいと自分の旅立つ瞬間を見せなかった。




どっちも大きな愛なのだ。



いろんな動物さんとアニマルコミュニケーションをしていても、旅立ち方とその意図にはいろんなパターンがある。


本当は静かで暗いところでひとりで旅立ちたいけれど飼い主さんの希望を叶えるべく、その瞬間腕の中に入ってきてから旅立った子、

もうがんばれない、迎えに来てほしい、と病院の中から訴える子、

安楽死によってとても楽になれたと感じている子…



看取れること、看取れないことなんてたいして関係ない、というか、死に方はそれぞれの魂の選択と計画であり、だいじなのはそこには互いを想い合う愛がある、ということだけだ。


動物の旅立ち方にも魂の目的・体験したかったこと・意図が含まれていて、動物の魂の選択は、尊重するしかないのだ。


そして、その体験を通して動物も人間もまたひとつ経験が増え、成長できる、ということだ。



動物の旅立ち方の選択・意図・意味について知りたい時、アニマルコミュニケーションはとても有用だと思う。



2017.7.26 軽井沢にて 琴13歳